2008/11/04

ビル・ヴィオラのトリスタンとイゾルデ 第一幕




3年前に授業を休講にしてまで、どうしても見たかった「トリスタンとイゾルデ」、今年のパリオペラ座の日本公演でも上演されたものですが、東京で再見するよりも遅くなりましたが、パリで再見しました。
このオペラは、ピーター・セラーズ演出、そしてビデオアーティストのビル・ヴィオラが映像を手がけたもので、モルティエ総裁の自信作ともいえるもの、パリでは再々演となります。
18時から始まり、二回の休憩をはさみ、終わったのは11時20分頃の長丁場で疲れているので、今日は第一幕についてまとめてみます。
第一幕
前奏曲のあと、緞帳があがり背景には横長のスクリーン、舞台向かって右に四角い台がおかれ、その上から光が四角く照らされている。台にイゾルデとブランゲーネがいる。
杉本博司の作品のような海が映し出される。最初遠景で地平線のみであったが、次に岸が映し出され、荒波が岸に当たり波しぶきがあがる、この間の映像は、不安定で暴力的な感じを受けるが、これはビル・ヴィオラの初期の日本滞在によるHatsuyumeや、Room for St.John of the Cross.1984と似ている。霧がかかったような海の遠景に船が見えると 暗転する。
舞台では、向かって左側に、イゾルデらがいるのと同じ大きさの四角い光が照らされ、更にその光の四角の前方に青い光が四角く照らされていて、そこの右にトリスタンがたち、クルヴェナルは左に座っている。ブランゲーネがトリスタンに近づくが、その青い光の中に入ることはない。これは、ビル・ヴィオラの映像を中心とする舞台のため、光によって最低限の場所を明示しようとする工夫といえよう。
スクリーンには、四角い額縁が二つ現れるが、下の部分は額がない(つまり額の四角い門のような形になる)その半分から少し上のところに地平線が引かれ、各額縁の地平線の中央に白い光が見える。いわば、遠近法的な奥行きをもつことになるのだが、地平線の前は光と影が縞状になっていて、一様ではない。映像の消失点の光が、どんどんと大きくなるのだが、それはトリスタンとイゾルデの二人に他ならない。二人は額の門の下のところまで到着する。この消失点から前面への移動は、Crossing等の作品で見られる表現方法を流用している。
舞台では、トリスタン和音が流れ、トリスタンが舞台から去ると、映像は浄化の映像となる。それは、額縁の映像と同様に、二連祭壇画的な映像であるが、ただし額はなくなっている。それは、グレーの室内にトリスタンとイゾルデと、それぞれ背後に老人の従者がいるというものであり、二人はそれぞれ服を脱ぎ始める。二人が裸になると、映像はそれぞれ、上から流れる水の映像に変わる。この水に二人は両手で触れる、当然水しぶきがあがる。この水と手の映像は、昨年のヴェネチア・ビエンナーレの出品作=Ocean Without a Shoreや、Crossingにおいて、水が上部から落ちてくる映像と類似している。この手と水の映像は、当初背後の身体が色彩を有しながら見えていたが、だんだん暗くなり背後の身体は消滅して、水のみの映像になる。
次に、二人が丸い水鏡のような水盤の前にたっている。それに二人はゆっくりと顔をつけては、顔をあげる。これは明らかに、Surrender, 2001のイメージを利用している。また、この水面がゆれ、明確な形が漸次的に変形し消滅していく表現は、第三幕のラストにも用いられることになる。次に、当初二人は正座して座っているが、ひざまずくように体を起こし、二人の老人の従者から瓶に入った水をかけられる。つまりは、浄化されるのだろうが、この映像の雰囲気は、マザッチオ(特にブランカッチ礼拝堂の作品と酷似している)やピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画に似た静謐な雰囲気を持っている。

このような、西洋美術史のマスターピースとの類比性は、1995年のヴェネチア・ビエンナーレにおいて、ポントルモの「聖母のエリサベツ訪問」を活人画的に再現した作品「グリーティング」以降、盛んに用いられることになる。この作品を契機に、ヴィオラは映画的工房、つまり舞台美術家、大道具、衣装、化粧、照明のスタッフとの共同作業体制を構え、映像に出演する役者を選び、演技指導を行うことになる。また、高速度撮影による、スローモーションの映像を実現するのだが、今回のトリスタンプロジェクトもその表現方法を踏襲している。
 また、97年のホイットニー美術館の回顧展は、長年の友人でビデオアートのキュレイターであるデヴィット・ロスと、演出家のピーター・セラーズによる企画であった。その後ヴィオラは、ゲッティ美術館の研究員に招かれ、西洋美術史における感情表現の研究に参加する。この研究は、その後の作品に大きな影響をあたえ、2000年の「驚く者の五重奏」を経て、パッションシリーズという作品群を生むことになる。
パッションシリーズは、二つのシリーズで構成されるが、それらは投影によらず、薄型の液晶パネルによる作品であった。2000年にニューヨークのジェームス・コーハン・ギャラリーで発表された、第一シリーズには「ドロローサ」が含まれるが、それは中世後期の折りたたみ式祭壇画のような形状であり、クローズアップとスローモーションを特徴とする作品となっている。翌年ロンドンで発表された第二シリーズは「悲しみに暮れる男」「静かな山」「四人の手」「ユニオン」「サレンダー=沈潜」「キャサリンの部屋」といった豊かな作品をもたらすことになる。
パッションシリーズは液晶パネルによる比較的小さい作品であったが、ヴィオラは投影による作品を放棄したわけでなく、2001年~2年にかけて大規模なインスタレーションを発表している。それは、一つは「ミレニアムの5天使」、もう一つは「日の光で旅たつ」であり、これらの作品群のエッセンスが、今回のトリスタンプロジェクト」に活用されることになる。

舞台に戻ると、浄化のシーンのあと、媚薬のシーンとなるのだが、いったん映像は消え、次に二人の顔のクローズアップとなる。このクローズアップのシーンは、カメラが水中にあり、水の中から二人の顔を見上げるようになっている。二人は顔を見ずにつけ入れ、しっかりと水の中で目を開ける。しばらくすると、息が続かなくなり、水泡が出てくると共に水から顔をだすと、水面はゆれ、それに反映される顔が映し出されることになる。そして、この映像はフェードアウトし、また色彩も失い灰色となって明確な形は失われ、曖昧なものとなる。
次に、暗闇のかなり深いところに白い点のようなものがあり、それを上からみているようなものへとかわる。このあと白い点は、二人が抱擁しながら、水中から上に浮上しようとしていることがわかるのだが、このイメージは「ミレニウムの五つの天使」でおなじみのものであり、最後の「愛の死」でも用いられる。しばらくすると、明確に二人であることがわかり、最後に水面まで達する。そして、コーンウォールへ到着するのだが、このとき合唱は舞台におらず、客席から歌われる。それと共に映像は真っ白になり、客席の光もともり、マルケ王も登場して、最後の音が鳴り終わると、暗転して幕となる。

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