2008/04/20

ヴォツェック@パリオペラ座(バスティーユ)

カーテンコール
夜のバスティーユ広場 フランス革命の場所
 こちらに来て初めてのオペラは、アルバン・ベルクの暗い暗いオペラ「ヴォツェック」、何か先行き不安になりそうだが、タイトルロールをキーンリーサイド、マリーをデノケが歌うという注目のプロダクションでもあり、バスティーユにはせ参じた。演出は、スイスのChristoph Marthalerで、装飾と衣装がAnna Viebrockによるもの、指揮はSylvain Cmbrelingによる新制作されたものだった。  

 第一幕、幕が上がると大きな食堂が現れ、その左右と奥は子供向けの運動施設となっている。主たる場面はこの食堂で演じられ、左右は以後の運動施設では子どもたちがトランポリンなどをしており、どこかの運動施設に併設された食堂のような感じである。ヴォツェックは緑色の服を着たウエイター、つまりは読み替え演出なのであるが、大尉はその食堂の客として現れ、髭というよりは頭の毛を剃るところから始まった。このオペラは、短い時間の割に、場面が多いのだが、演出家は一つのセットだけで、照明によって場面をわける手法をとった。つまり、殺害が行われる第三幕の池のほとりは、食堂のなかということになる。第一幕第三場でマリーが登場するが、マリーは、表はネクタイ、背中にPOLIZAIとプリントされた黄色いTシャツを着た息子を連れて登場する。息子は、この演出の鍵になるのだが、背後の運動施設で遊ぶ他の子どもたちから疎外され、茶色い大きなビニール人形だけが友達のような設定となっている。第5場は鼓手長がマリーに絡むところだが、Jon Villarsはマッチョで下品な鼓手長で、デノケ演じるマリーは、へそだしの服を着ていて、それに鼓手長は反応し、大胆に胸をまさぐり犯そうとする。それを一人ぼっちの息子が運動施設のガラス越しに見入ることになる。そして、息子はマリーと鼓手長が食堂からいなくなると、ビニール人形を連れて食堂=家に戻り、椅子三つを連ねて眠り込むことになる。

 一つの場所だけしかないため、一度登場した人物達は、その場を退場することなく、ずっと食堂の椅子に座り、その後の場面を見入ることになる。また、舞台左後方の座席には、眼鏡をかけた半ズボンの青年が、ずっとボールペンのインクを入れ替え、試し書きをして、ペンを作成し続けている。

 第二幕、第一場マリーがイヤリングを見つめているシーンのあと、ヴォツエック登場するが、全体をとおしてヴォツェックの態度は、几帳面な人物として描かれ、半ばロボットのように、アイロンをかけ、テーブルの瓶やコップを移動することに終始している。第二幕は舞台左にマーチングバンドがのり、マリーは鼓手長の愛撫に身を委ねている。そして踊り、舞台から消えることになる。そして二人がいなくなった舞台では、第一幕からずっとボールペンを作り続けた男が、血のにおいがすると予言する。つまり、白痴は単純労働者だったのだ。第五場に、鼓手長が帰ってくると、おどおどとヴォツェックは口笛を吹くが、たたきのめされる。それを、舞台右手に置かれたアップライトピアノの横で息子はみつめることになる。

 第三幕、マリーは息子と一緒にいて、不安におののくが、聖書は登場しない。ここまで、デノケのマリーは、高音のリリカルな場面は良いが、台詞および口汚れた言葉の弱さが気になったが、ここでの歌唱は、さすがに一流の歌手の声を聴く喜びを強く感じた。バスティーユの会場がデノケの声で満たされると、その後ヴォツェックが登場し、第二場へ、舞台のライトが一つだけとなり、それが赤い月の代わりなのかもしれないが、マリーの喉を切り殺害する。湖がないので、舞台左にはピエロの顔が描かれ、その口が運動施設に通じるトンネルの入り口のようになっているのだが、そこにマリーを押し込むことに。 第三場、舞台右のアップライトピアノに合わせ、ヴォツェックとマルグレートが踊る。それを、運動施設のガラス窓から、食堂にいた人々がのぞき込み、殺人が発覚すると、舞台は暗闇に包まれ、ヴォツェックは殺害に使用したナイフを探すが、なかなか見つからず、さらに舞台は暗くなり(ここでヴォツェックがどのように消えたか見逃してしまった・・残念)おそらく殺害後マリーを捨てた、あのピエロの口から、池で溺れるシーンへとつながったのだろう。第五場前の前奏曲時には、舞台は明るくなり、息子以外の子どもたちは食堂のテーブルに座り、息子は右のアップライトピアノの横に立つ。そして残酷な第5場、子どもたちが椅子に座りながら、マリーが殺害されたことを歌い、息子はピアノの横でただ、ただ木馬はないがハイシードードーとつぶやいて、幕がありる。

 久しぶりのパリオペラ座、いつも比較的良い席でみていたので、今日の第二バルコンの上方は、新国のDよ席り遠く感じた。さて、音楽的に見れば、オケは良く響いていたし、舞台上のバンドやアップライトピアノも効果的だった。キーンリーサイドのタイトルロールも、ヴォツェックの内面が伝わってくるような歌唱で感心した。 問題は、演出なのだろうが、今のご時世に表現主義的なものを求めるのはナンセンスとはいえ、ヴォツェックの内面の現代性がこれで表現されたかは疑問だ。一見運動施設の日常と、食堂のリアリティの隔たりが大きく、エンターティメントとしては楽しめるけど、それでこのオペラいいのかいという気持ちは残った。
new DecolinkParser().start('diary_body')

0 件のコメント: